少年時代のトラウマ
どうしてそのようなことが起こったのか。彼の伝記には少年時代の、今日の言葉で言えば「トラウマ」(心の傷)のような経験があった。ガルストは少年時代短気であった、兄弟けんかをした、燃えるような怒りのやり場がなく、外にかけ出して畑の中につっ伏した、
もう兄と一緒に住むのもいやだと思った。そのとき突然、どこからかかわいがっていつも餌をやっている鶏が来て、ガルストの足をつついた。そのとき、ガルストは溢れる怒りをこの罪のない鶏に注ぎ出し、首をひねって殺してしまった。八つ当たりをした。なんということをしたのか、少年の心から突然怒りの火が消えた。アイオワの大草原に立った。死んだ鶏をぶら下げて悄然と歩き出す、向こうから兄は、行方不明になった弟を探しにきた。和解があった。心の癒しがあった。このトラウマ、心の傷が、彼の心を敏感にしたのではないか。
ガルストの選択
大人になっても少年時代の心の傷は疼く。そのときメッセージを聞いた。メッセージとは元来キリスト教的な言葉である。福音とは「悦ばしいメッセージ」という意味である。福音を聞いた。先に未来への選択は山手線から中央線に乗り換えるようなものだと言ったが、新宿駅にはその乗換えを促すメッセージのアナウンスが響く。立ち上がる、そして乗り換える、そのようにして彼は変わった。鶏は和解のいけにえであったのではないか。そしてイエス・キリストの十字架の犠牲ということがわかったのではないか。人類は、イエス・キリストに八つ当たりして殺したのではないか、そして人類は目覚める、悲しいことだがそれしかない、それ以外に新しい人になることはできない。預言者イザヤは、キリストのことを「悲しみの人にして悩みを知れり」と言った。さらに「その打たれし傷によりていやさる」と語った。キリストのメッセージを聞いて心が動いた、剣を捨てた、そして「敵意を滅ぼし、和解を達成する新しい人」へと大きく変わって行く。ガルストは、30歳から45歳までの15年、彼の人生の最良の時を日本のために捧げ尽くした。最後にMy Life Is My Messageという言葉を残して死んだ。彼の人生がそのメッセージと化した。
ガルストの心の中に動きが起こった。それは外面の動きに換算すれば、太平洋を越えるほどの大きな動きであった。日本もはるか東北の秋田、それから山形へと向かった。山形は庄内地方、「おしん」という外国にも有名になったテレビドラマがあるが(いまイラクでも放映されているそうだ)、まさにその「おしん」の故郷に彼は立ったのである。明治時代後期のことであった。ガルストは、そこにあった小作農民の貧困と悲惨がどこから来るかを見抜いた。その地方には日本一の大地主本間家があった。「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」という台詞があったほどである。殿様以上の大地主がそこに居た。そこにある問題は、キリスト教的に目が開かれなければ見えない。ガルストは「土地は神のものだ」という聖書の教えをもって、その現実を見た。そして神を知らないことがいかなる社会不正義を産み出すかを見た。ガルストは、地主から税金をとる以外にないと考えた。それが彼の「単税経済学」である。内面の自由から出発して、経済的自由を日本に与え、日本を神の国にしようとした。彼は福音伝道と社会改革とを結び付けた。日本の社会運動の先駆者となった。青山墓地に彼の墓がある。その動きは直線的、彼はアメリカに戻らなかった。
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![チャールズ・E・ガルスト](../images/about/book.jpg)
L.D.ガルスト著/小貫山信夫訳『チャールズ・E・ガルスト』
(聖学院大学出版会)
当時宣教師たちがあまり踏み入ることもなく、経済的にも大変厳しい状況のなかにあった秋田・山形の地を宣教の地と選び、キリストの福音を伝えるとともに、重い税に苦しむ農民のために「単税論」を説き、生活の改善のための社会活動を行ったガルストの生涯が生き生きと紹介されています。
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