女子聖学院が1905(明治38)年11月1日、築地に創設されました。婦人伝道者養成の目的で最初に神学部ができました。1907年(明治40)に校舎を中里に移転し、翌年には普通学部を、さらにその翌年に家政科を創設しました。1911(明治44)年には、英語科と家政科の専門部が創設されました。
中里幼稚園は1912(明治45)年に女子聖学院の構内に附属という位置づけで創設されたのです。文部省の認可を受けての開園でした。
創立者のミセス・プレースは、アメリカ・インディアナ州インディアナポリス市の生まれで、バトラー大学、シカゴ大学を卒業した外国語が堪能な才媛でした。夫のアルフレッド・ウィリアム・プレース氏と2人の息子と一緒に1907(明治40)年に来日しました。早稲田大学で野球のコーチを務め、女子聖学院構内に宣教師館を設計したプレース氏と女子神学生の伝道を助け、音楽と衛生の教師をしていたミセス・プレース。2人ともスポーツ好きの明るい性格で、自分の子どもと日本の子どもをよく遊ばせ、仲よくさせたそうです。こうした中で、幼稚園と保母科を始めたいと考えたのです。
中里幼稚園創設にあたって、ミセス・プレースの最初の協力者になった人が河島しまよでした。男女聖学院創立に尽力した河島洋次郎牧師の次女で、聖書学校の教師をしていた人です。園はプレース夫妻の宣教師館を園舎として園児数人からスタートしました。園舎の建築費の寄付を募ったところ、予想以上に早くたくさんの寄付金が集まり、1912年の5月末には園舎が完成。6月1日には落成式が行われました。
1912(明治45)年に創立した中里幼稚園は、ミセス・プレースが第1代の園長で、第2・9・11代はミセス・ヤング、第3代はミス・レディヤード、第4代はミス・ブラウン、第5・7・10代はミセス・マッコイ、第6代はミセス・ワトソン、第8代はミス・スコット、第12代は平井庸吉先生と1944(明治19)年までの33年の間に8人。ミセス・ヤングは合わせて14年在籍しているものの、1年または1年足らずの在籍期間の園長もいて、目まぐるしく交代しています。
アメリカから来た宣教師が務めていたため、諸事情で帰国するケースが多かったようです。しかし、園長は目まぐるしく変わっても、常に有能な保母に恵まれたおかげで、保育現場では質の高い教育がなされていたのです。
「初代園長ミセス・プレースが在籍1年4ヶ月で、義父ロバート・プレース急病のため帰米したことと、河島しまよが在籍2年5ヶ月で結婚のため退職したことは、創立日なお浅い幼稚園にとっては大きな打撃であったが、神は次々とよい働き人をここに召し集め給い、『学びつつ教える』最初の段階から、漸次専門的教育を受けた橋本よし子、和田小波、世良田ゆう子、中沢咲子、望月兎羊等の優秀な保母が、篤い信仰をもって幼な子にキリスト教を宣べ伝え、同時に幼稚園の組織、教育内容、施設などを充実し、宣教師と保母が母親達に働きかけ、所謂『母子ぐるみの幼児教育』を展開したことは、大正デモクラシーの時代の思潮の波に乗り大きな効果を挙げ、1922(大正11)年に見学に来た文部省の役人に『ここは東京一の幼稚園です』と激賞させ、自由学園創立前の羽仁もと子が、昭和の初め(年月不詳)に調査に来て、その教育の素晴らしさに深い感銘を受けた所似である」(『60年の歩み』より)
中里幼稚園創設期
『神のみくらにたまと輝け』P.27-28、37-38より一部抜粋