バーサ・クローソン
米国外国伝道協会 The Foreign Christian Missionary Society(F・C・M・S)の命を受け女子聖学院創立に手をつけた時、バーサ・クローソンは37歳、これを助けた河村きよみは22歳、集った生徒には河村きよみよりも年長者さえあった。1905年(明治38)11月1日、日露戦争が終わって凱旋将軍で連日混雑を極めている頃、築地の一角に主として東北から来た10名の生徒と、内外人10名の教師を以て、女子聖学院は婦人伝道者養成を旗印として開校した。2年近くの仮校舎授業で、1907年(明治40)6月11日、1名の第1回卒業生を世に送り、同年7月、R・A・ロング氏が亡き母マーガレット・K・ロングを記念して寄付した1万ドルを以て、滝野川に約4,000坪の土地を購入し、新しく建築した校舎に移り、10月11日輝かしい献堂式を挙行した。翌1908年(明治41)4月より、日本女性にキリスト教的な高等普通教育を授ける目的を以て、更に女学校を附設し、時に全校生徒はわずかに24名であった。1909年(明治42)6月、平井庸吉が幹事として大阪より赴任し、これよりクローソンとの名コンビによって学院は運営された。然し残念なことは神学部の振るわないことで、1911年(明治44)には外部からの志願者皆無で、女学校の生徒を転学させた有様だった。同年10月エディス・パーカーが小規模な家政科を始め、翌年4月よりミセス・プレースと河村しまよが中里幼稚園を開いたのも学院発展策の一環と見られるが、依然として生徒の志願者は少なく、経営は困難を極め、さすがの忍耐強い平井教頭も匙を投げて了ったこともあった。1913年(大正2)4月、本格的に実業学校程度の家政科が出発し、同年7月女学校は文部省より指定校の認可を受け、翌1914(大正3)3月同窓会誌「ともがき」が創刊された。同年10月R・A・ロング氏より5,000ドルの寄付とF・C・M・Sの3,000ドルを受けて、設備のよい家政学部、音楽部の校舎が新築されたので、1915年(大正4)4月より志願者も増加して漸く順調な発展をするようになったのである。
開校式は明治38年(1905)11月1日(水)、築地A14番地の宣教師館1階礼拝堂兼教室で行われた。クローソンはその日のことをアンゴラ教会のメドバリー牧師にこう綴っている。
…新しい学校の最初の日が終わりました。あなたはどんなことを御想像になりますか。10人の女生徒と3人の専任教師です。私の生涯の仕事としてあなたはこれをどうお考えになりますか…。
と書いているところを見ると、クローソンはもっと多くの生徒が与えられることを期待していたので、いささか拍子抜けがしたようである。これに対して、
…バーサ・クローソンよ、私の考えをあなたにお話しいたします。それはあなたがあなたの先生よりも決して良いとは思いません。あなたはずっと前に、あなたの先生がパレスチナの土地で男生徒のために、学校を始めたことを憶えていませんか、そこにはたった12人の生徒と1人の先生しかいませんでした。然るにその学校は今や全世界に広がっているのを考えてください。あなたはあなたの仕事を楽しくお続けなさい。…
という含蓄に富んだ激励の手紙はクローソンに慰めと希望を与えた。
最初の校舎と寄宿舎
『女子聖学院五十年史』P.13-17より一部抜粋