ガイ博士(Hervey Hugo Guy)
聖学院中学校は、1906(明治39)年日露戦争終息の翌年、米国ディサイプルス派の外国伝道協会宣教師ガイ博士(Hervey Hugo Guy)によって創設されたものである。
この教派は、元来クリスチャン・チャーチ派(Christian Churches または Churches of Christ)とディサイプルス派(Disciples of Christ)が合同したもので、当時教派公式名としてはディサイプルスを用いていたが、所属各機関や各教会はいずれもクリスチャン名を用い、日本では「基督教会」を教派名としていた。
米国のキリスト教は、もともとヨーロッパからの移民によってもたらされたもので、教派や教義を異にするために対立もはなはだしかった。それが、米国の独立戦争と自由民権思想の高まりに影響され、教会改革運動となったが、その運動はほとんどが厳しい教会政治と信仰箇条の制約から脱し、初代教会の単純な信仰への復帰というクリスチャン運動の形式をとっていた。
ディサイプルス派では、1875(明治8)年に外国クリスチャン伝道協会(Foreign Christian Missionary Society)を結成、イギリスその他4ヶ国、次いで1883(明治16)年に日本に宣教師2家族を派遣した。
チャールズ・E・ガースト
(Charls Elias Garst)
最初に派遣されたのは、ジョージ・T・スミス牧師とチャールズ・E・ガースト(日本ではガルストと言っていた)大尉の両夫妻であった。スミスはアメリカで十年間の牧師経験があり、当時40歳、6歳になる娘があった。ガルストは農業学校、ウエストポイント陸軍士官学校を出て、大尉まで昇進していたが、結婚後外国伝道に関心を寄せるようになった。来日の時は30歳、牧師となる教育は受けていなかったが、元来ディサイプルス派は資格は問わないのである。2家族は、9月27日サンフランシスコを出帆、荒天に悩まされながら23日間の太平洋航路を経て、10月19日に富士山のよく見える横浜に着いた。横浜ではバプテスト派宣教師の世話で約7カ月間日本人教師について日本語を勉強しながら、日本のどこで伝道すべきかについて熱心に研究した。その結果他のいずれの教派も宣教師を派遣していない条約港や首都から遠く離れた秋田を選んだ。
【左】ジョージ・T・スミス牧師
(George T. Smith)
【右】ジョセフィン・W・スミス
(Josephine W. Smith)
秋田では大きな武家屋敷を借りて住み、その家で伝道集会を始めた。翌月から、若いガルストは日本人伝道師をつれて地方伝道に赴き、スミスは秋田に残り苦心に苦心を重ねて日本語で説教したところ、子供たちは彼の間違いの多い日本語を笑ったり、騒いだりして困らせたという。2ヶ月遅れてスミス夫人が娘をつれて着任した。健康は依然思わしくなかったが、編物教室を開いたりして一生懸命に伝道した。しかし寒い翌年3月、次女出産とともに母子とも寂しく異郷の地で召され、大いに同情をひいた。2人は今も秋田の墓地に眠っている。
初期の伝道状態について、一宣教師が書き残しているところによると、「スミス氏は秋田で最も激しい反対にもめげず、熱心に伝道したことで有名である。彼は熱心さの故に、後ろからは投石され、前からは嘲笑されつつも、秋田市内各地を伝道して回った」「ガルスト氏は日本語が十分話せない時分から、聖書や伝道文書のいっぱい入ったカバンを背負い、わらじばきで東北各地を歩き、伝道した」
ガルスト氏は伝道の都度、貧困で栄養不良の小児の多いのを見て、早くから乳牛を飼い、病人や小児に牛乳を与えていた。のちに東北各地で山羊や乳牛が飼育されたり、クローバーが植えられるようになったのは、彼の功績によるものであるという。
その後ミッションの本部は首都におくべきだということになり、秋田の伝道は日本人に委ね、ミッションは1890(明治23)年東京に移り、スミス以下各宣教師は本郷や小石川の地を中心に伝道を始めた。
『聖学院中学校高等学校百年史』P.1-6より一部抜粋