学校法人聖学院 理事長・院長 大木英夫
すべて地上における「よいもの」、たとえばよい家庭、よい友人、よい詩作や作曲など、すべてよいものは人間が苦心して作ったものというよりは、天から降ってきたもののように感じられるのではないでしょうか。聖なるめぐみの賜物と言うべき感じがするものです。
このチャペルが出来上がったとき、わたしはその真ん中に立って、見上げたり見回したり、目をもって味わうようにじっと見つめながら、ひとときを過ごしました。その感覚はどう表現したらよいか、ここにも何か人間を越えたものを感じさせるのです。まず見事な美学と工学との結婚とでも言えるかも知れない、しかし、それ以上でないと、その感覚は十分表現されたとは言えないのです。こう言わねばならない、人問から高みへの超越というよりは、このチャペルは何か逆に、もっと神的な高みからここに来臨したような美しさだ、と。言うまでもない、多くの人間の努力と労苦を経てここまで来た、しかしそれだけでない、それは天上から降ってきて突然ここに姿を現した――わたしが受けた感覚はこう言い表わすことを要求するのです。
まさに聖学院大学の名に冠された「聖」に相応しいチャペルがここに与えられました。大学には研究の三つの基本分野があります。「真善美」という言葉が示すように、科学と道徳と芸術、これら三つの分野です。このチャペルにもたしかに真善美があります。しかしそれだけではない、それ以上のもの、聖なるものがあります。「聖」は、その三分野のどれにも特化されない、むしろそれらを包みかつ超越するものです。
実は、キリスト教における「聖」とは、神が人間世界から超越していることではない、そうではなく、あのキリストの姿に見るように、神が人間世界へと越えて来ることを意味します。来臨する超越なのです。
キリストは、三つの聖なる美徳、信仰と希望と愛とを携えて人間世界に到来されました。聖学院は、今は百年の歴史をもっているキリスト教学校として、その聖なる美徳を、真善美の教育において生かそうとしてまいりましいた。設計者香山先生は、聖学院における「聖なるものの来臨」、「信仰と希望と愛」をこのチャペルに見事に表現して下さったのです。感動しました。
日本の普通の大学は、チャペルをもっていません。真善美を続合する「聖」をもっていません。大学、ユニヴァーシティとは、そのラテン語の語源からすれば、一つへ転向するという意味です。日本の大学にはその一つへの統合がないのではないでしょうか。聖なるものがないのです。科学と道徳と芸術の統合がない、ユニヴァーシティではなく、マルチヴァーシティだと言われるのです。
聖学院における真善美の探求は「聖」へと転向する、それをこのチャペルが象徴しています。聖学院教育は、このチャペルの中で収斂し、統合され、また上へと引き上げられます。なぜか。信仰と希望と愛とは、神の賜物であり、神からここに到来し、人間はその信仰と希望と愛とを実現することによって神を憧れからです。聖学院教育は、聖なる憧れを養う教育です。それが世界を一つに統合するのです。聖学院大学はその小さなモデル、いや宇宙の原型、グローバリゼーションの目的を指し示すのです。
2004年11月23日に献堂式が行われます。神のものだからこの「聖堂」を神にささげるのです。今後聖学院大学はこのチャペルにおいて大学礼拝をもちます。日曜日には大学教会でもある目本基督教団緑聖教会が公同礼拝を守ります。このチャペルは、ここで学生も教授も、また近隣の人々も、ここに来臨した超越者なる神を仰ぎ、ここで心を高く神へと上げる、まさに世に稀なる聖なる空間であります。
聖学院は、このチャペルを持ったことを誇るのではなく、感謝するのです。聖学院大学に宿るすべて信仰と希望と愛とを与えられた神を誇る、この「誇る」という言葉はギリシャ語では「喜ぶ」とも訳せます、ここで神を喜ぶ「喜び」をもち統けるのです。この大建築が完成し、多くの労苦が終わるとき、この献堂式に当たって、あの作曲家バッハが作曲を終えたあとその楽譜の最後にSoli Deo Gloria「神にのみ栄光があるように」と記したことにあやかり、バッハと同じ信仰を持つわたしたちは心を合わせて、この言葉をもって神に感謝し、栄光を聖なる神にのみ帰したいと思うのであります。
(聖学院報No.26「巻頭言」掲載)
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