聖学院教育会議

  聖学院教育会議 基調講演 (2000/4/20)

教育基本法の精神と聖学院教育会議

Dr.Hideo Ohki

学校法人聖学院
理事長・院長 大木英夫

 
 小渕前首相も、その後継者である森首相も「教育改革」ということを内閣の政治的優先課題に掲げております。「教育基本法」の改訂ということをしきりに発言しています。しかし、今のところ、どこをどう変えるのかということをはっきり提示しているわけではなく、ただ「教育基本法」が今日の教育の荒廃の基本的な理由をなしているかのような思い込みを一般に与えようとする政治的言論操作だけが目立っています。

 はたして「教育基本法」が今日の教育の荒廃の原因でしょうか。むしろそれは、日本の戦後国家再建の政治的指導において「教育基本法」を守らないできたことの結果ではないでしょうか。それを糊塗して責任を「教育基本法」にきせるのは、不当であると言わねばなりません。「教育基本法」を無視した戦後教育の問題は、今日の日本の指導層の腐敗にもっとも明らかに出ているからであります。「教育基本法」の規定する国民教育の目的は「人格の完成」ということですが、それを無視した結果、人格未熟な政治家、人格未熟な高級官僚が多く出て、その腐敗の深刻さは一般市民に不安を与えてきたのであります。

 心ある人々は「教育基本法」がいかに立派なものであるかを知っています。今の政治家や官僚は、むしろ「教育基本法」によって再教育されることが必要なのではないでしょうか。未熟な人格が大きな権力をもつことがいかに危険であるかは、戦前のみならず、戦後も、多くの人々に苦痛をもって知られてきたからであります。

 「教育基本法」の改訂という言論の背後にある意図は、「日本国民教育」というものを入れ込もうとすることだと言われております。もしそうであれば、その是非については、もっと広範に長期にわたる研究や検討が必要であるのであって、ひそかに政治的に拙速推進するようなテーマではないのであります。 戦争中の東大に河合栄治郎事件なるものがあったことを覚えている人もおられることと思います。河合は、教育の目的として「人格の完成」を主張しました。しかし、それは日本的な国民教育に反するという当局の弾圧によって、彼は辞任に追い込まれたのであります。

 今、政府はひそかにそれと同じことをしようとしているのではないでしょうか。そのために「国民会議」なるものがつくられ、政治的決定を強行するための国民的承認を偽装するかのごとき準備を整えています。もしその「国民会議」なるものが、「教育基本法」成立の背景と精神を理解せず、政府の意向に沿う多数決要員としての役割だけを果たすとすれば、戦前は露骨にしてきた愚行を、今は多少偽装しながらもそれと同じ愚行を繰り返すだけとなるでありましょう。

 日本はナショナリズムで失敗した国です。「吐いたものにたち帰る犬」(箴言)のようであるべきではないと思います。最近石原都知事の「第三国人云々」という発言が批判を浴びていますが、これがヨーロッパであれば、オーストリアのハイダーの類似の言動に対する国際的反撥となるところであります。政治家は、「国際的に信頼される日本人」と言いますが、それは「人格の完成」から結果するのではないでしょうか。「教育基本法」は、戦後日本の国際的信用手形のようなもので、いまその改訂云々を言うことは、日本の国際的信用を揺るがすことになるだけであります。

 わたしたちは「教育基本法」によって再教育されるべき、あるいは継続教育されるべきであります。人格的に未熟な政治家や官僚や、あるいは戦争中のナショナリズムの亡霊にとりつかれたような知識人たちによって「人格の完成」の教育路線からナショナリズムの前科を繰り返す方向へと転轍されることは、今どきあってはならないことであります。将来の憂慮すべき事態を未然に防ぐことこそ、「教育基本法」制定の精神を生かすべき今日の国民的課題であると思います。

 こういう状況の中で、聖学院では、日本の教育の問題を、教育の現場にあってどう解決していくか、政府の「国民会議」とは異なり、独自なヴィジョンをもってすでに何年も前から「教育会議」を計画してまいりました。それは今年の秋、10月23日に、新しく出来た聖学院中学校高等学校の講堂や会議室で開かれることになっているのであります。この会議では、当然ながら「教育基本法」を基本として、戦後教育と戦後社会の諸問題を検討し教育の現場に即してどう解決して行くかが、重要な議題となるはずであります。日本の教育問題と本格的に取り組むため、いよいよ聖学院は、動き出そうとしているのであります。              ( 2000/4/20 )

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