理事長メッセージ 2002年10月18日 | ||||||
聖学院教育会議は、このような「日本の問題」との取り組みを一教育機関として始めようと、3年前から自発的に始めた教育改革の努力である。日本の問題に教育会議をもって取り組むのである。そのきっかけは、日本政治になお隠然たる影響力を残す中曾根元首相の主導のもと、憲法改正の前哨戦を教育基本法の改正で始めようとしたことであった。それは日本をあの不幸に導いた戦前のナショナリズムの再燃であった。教育基本法は、そのナショナリズムの教育を反省し、そして新しい日本を形成する指針として制定された「基本法」(ドイツ語のGrundrechtは「憲法」の意味をもつ)である。その第10条を引用しよう。「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行なわれるべきものである。A教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を連行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行なわれなければならない」。この規定は要するに戦前のウルトラ・ナショナリズム教育に対する反省から出たもので、教育基本法は、この反省を背景として読まれ、解釈されるべきものなのである。ところが、その質的には同系の政治勢力あるいはそれと同調する固定観念の担い手集団が、教育基本法に攻撃を加えだしたのである。
しかし、教育がこのような政治の介入を排するためには、みずからを改革し、教育基本法の理想を実現するのでなければならない。そのために聖学院は、この教育会議を企てたのである。多くの論議がなされ、教職員の交流が起こり、そして改革の諸目標が出てきた。それは、これから実行に移されることになろう。ここで、聖学院の自己改革の大目的を、以下の3点に要約してみたい。 1.
「教育基本法の理想は21世紀の日本において実現されねばならない (1)今日の日本の教育崩壊は、教育基本法に何か問題があった結果ではなく、教育基本法を真剣に実現すべき努力がなされなかったことの結果である。日本国を「国際社会に名誉ある地位」へと導き上げることが日本の政治と教育の目標であるならば、それは教育基本法の理想を実現すること以外にない。 (2)最近の教育基本法の改定の方向が一部の政治家たちによって推進されているが、それは教育基本法第10条の規定(前記参照)に反するものである。その動きは日本ナショナリズム復元の動きであり、戦前のナショナリズムの犯した過ちを繰り返す方向へ次世代を導き、そして日本の将来を世界の中にあって再び孤立化へと至らせることになる。 (3)バブル時代の日本ナショナリズムの復興は、のちに韓国、中国、マレーシアでも起こったような技術的経済発展にすぎないものを日本的経営の成果と誤って解釈し、過大に評価した一種の政治的作為である。そのナショナリズムを支えたバブル崩壊後になおそれを主張することは更なる自己欺瞞である。 2.
教職員はサーヴァント・リーダーシップをもたねばならない (1)聖学院教職員はサーヴァント・リーダーシップをもたねばならない。サーヴァント・リーダーシップは、教育機関に働く者に期待される高次な精神であり、高度な能力である。
3.
「賜物」を発見させることが聖学院教育である (1)神は人の命の中に恵みの「賜物」(聖書のいう「タラント」あるいは「カリスマ」)を与えられた。それがその人の人格的個性の中にひそんでいる。教育の使命はひとりひとりに与えられた賜物を発見させることである。それは遺伝的能力を引き出すという古い「エデュケーション」(才能の開発)とは違う、また受験教育とも違う。 (2)賜物を知ることは、賜物を与えた神を知ることと結びつく。そしてその賜物の与え主に応答する生き方を生み出す。神に応答する(respond)ことが責任的(responsible)な人間を造る。そこでその人は「使命」をもって生きるようになる。
11月14日の第3回聖学院教育会議において、予定された計画はその終点に達する。そこ |
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