(前略)このような背景の中で、人間の在り方が変わってくるのであります。契約関係が「リスポンシビリティ」の概念を含蓄しているのであります。神と人間の関係、そして個人と個人の関係は、人格的関係として自覚されるようになります。リスポンシビリティという概念は近代的な概念でありましょうが、その言葉の発生の以前からその言葉で言われるような事態はあったのであります。人格関係の仕組みの中で、その言葉は構造的に基礎付けられるのであります。リスポンシビリティに似た概念で「義務」という概念がありました。義務(duty)は法律的に課せられて果たすべきことであります。違うのは、リスポンシビリティは人格と人格との間の呼びかけ(call)と応答(response)という構造をもっているということであります。自己責任という言葉も最近の流行語です。それは、社会構造が変化して、人格関係として自覚されるようになったからであります。
興味深いことは、リスポンシビリティという概念が倫理学で重要な意味をもつのは、20世紀になってからであります。それは、思想的には、マルティン・ブーバーの「我と汝」「我とそれ」という、彼の言葉で言うと「二つの根源語」の発見から来る影響であります※。この人間学的思想が、一種の意識改革をもたらしました。「我」だけでなく、「汝」がいる、デカルト以来の近代思想は、この単純な事実を忘れておりました。それまでは、倫理学的思惟は、ギリシャやローマの倫理学的概念で考えておりました。善論とか徳論とかであります。19世紀には価値論が台頭しました。しかし、リスポンシビリティという概念は聖書的な概念であって、それは、ブーバーを取り入れた神学者ブルンナー、ニーバー兄弟、とくに弟のリチャード・ニーバーにおいて倫理学の主要概念として登場するのであります。リチャード・ニーバーは、リスポンシビリティとアカウンタビリティとを、倫理学の議論の中心に据えました。しかし、人格関係的構造の中ではじめて成り立つ概念であります。
このような概念が出てくることの背景にはモダナイゼーションがあり、それによって世界が構造変化して行くグローバリゼーションの並行伴起とがあります。グローバリゼーションとは、地球つまりグローブがグローブ化することであります。自然のままの地球ではない、それは文明としてのグローブとなること、人間世界になること、文明世界になること、市民世界になること、それがグローバリゼーションであります。表面的な金融経済問題だけでグローバリゼーションを理解すべきではないのであります。このような社会変化を背景として、人間の責任が大きく問題となるのであります。責任意識が求められるのは、人間の主体性の要求であります。
※
ブーバーの「我と汝」、「我とそれ」という二つの根源語は、ブーバーの本来の強調するところとは異なって、人格関係における「人格」の強調として受け入れられた。それはブルンナーにおいて典型的である。しかし、ブーバーは、むしろ「関係」論的に考えており、そこで「我と汝」と「我とそれ」とは関係において融通しあう仕方で理解されている。ラインホールド・ニーバーは人格論的、リチャード・ニーバーは関係論的に捉えた。
「リスポンシビリティ」と「アカウンタビリティ」
辞書的に言えば、リスポンシブルとアカウンタブルとアンサラブルは同義的であります。リチャード・ニーバーは、リスポンシビリティの概念の中に四つの契機があることを指摘しました。第一は応答(リスポンス)ということ、第二は解釈(インタープリテイション)ということ、第三はアカウンタビリティ、第四は社会的連帯(ソシアル・ソリダリティ)であります。しかし、わたしは、むしろ「リスポンシビリティ」と「アカウンタビリティ」の二つに分けて考える方がよいと思います。(わたしはリチャード・ニーバーとソシアル・ソリダリティの理解での違いを感じますが、それはここでは述べません)。解釈の要素、社会性の要素は、リスポンシビリティとアカウンタビリティのどちらにも含まれるからであります。しかし、社会性は、それが今日強調されているように、アカウンタビリティにより明白なものとなっております。
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