人間の危機と聖学院の教育会議

「人間の危機と聖学院の教育会議」


" Trust God; see all nor be afraid " ( Browning )

学校法人聖学院  理事長・院長 大木英夫 

 ニューヨーク・マンハッタンの惨状は、21世紀の戦争の開始と言われる。戦争の中には、幾多の人間破壊があった。しかし、これはこれまでとは質量ともに異なる人間破壊だ。壊されたのは巨大な高層ビルだけではない。そこに見るのは人間破壊の深刻さである。ハイジャック行為は、突如無辜の乗客もろとも空飛ぶ巨大なミサイルのような爆弾と化し、あの世界貿易センターの二つの高層ビルに突っ込んだ。言語に絶する。その冷血も極限的、その知恵も極限的である。目に見えぬ敵とは悪魔のこと


棟方寅雄 「ヨハネ黙示録」
(F300号キャンパス、油彩、1955-6年頃制作)
聖学院中高講堂の壁面に掲げられている

を言う。21世紀の冒頭、これは人間が悪魔化した瞬間であろうか。たしかに人質という戦争や政治の悪知恵と卑劣な手段は昔からあった。通りがかりの人を道連れに自殺的犯罪行為が行なわれることは今もある。最近も池田市の小学校の子どもたちが、早く死にたいと口走る男によって殺害された。しかし、自殺と他殺ということが、今日の文明の先端においてこれほど過激なかたちで結びつくという出来事がかつてあっただろうか。人間が越えてはならない一線を越えた瞬間、世界中の人びとはそれを見た。2001年9月11日という日を、21世紀は忘れることはできないであろう。

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 聖書は二つの戒めを教える。「心を尽くし、精神を尽くし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。また、自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」。この事件が惹き起こした恐怖の中で、この言葉は、人の耳にどう響くだろうか。これは失われた言葉であろうか、それとも、現代の人間に失われているものを思い起こさせる言葉であろうか。人間への愛は神への愛と結合している、いなければならないのだ。人類の歴史を地下水のように流れ、人間の生き方を基礎付ける言葉である。人類は、少なくともキリスト教学校は、この言葉をはっきり思い起こさなければならない。

  「人格」とか「人権」とか、これらは現代日本人にも共有されている概念、個人にとっても、文明社会にとっても、大切な概念である。しかし、なおざりにしてならないことは、このような人間観は、キリスト教的な由来と基礎をもつということである。20世紀前半のイギリスの有名な経済史家R.H.トーニーは、キリスト教の教理の重さを年をとるにしたがって分かってきたと、ある書で述懐した。人間が「神の像」として造られたという教理とか、人間の「堕落と罪」の教理とか、それは、どれほど科学技術が進歩しても排除できない重みをもっている、そのことをこの歴史家は知るようになったというのである。スイスの神学者エーミル・ブルンナーは、キリスト教的基礎を失った人権概念は枯死することを教えた。天賦人権という言葉がある。「天」は今や虚空、虚無の空である。アメリカの最高裁の首席判事であったウォーレンは、「法は道徳の海に浮かんでいる」と言った。道徳の海に不可逆的巨大な引き潮が起こっているのではないか。そのとき、法の船はどうなるか。

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 教育の危機は、現代文明の崩壊現象の一つである。ただ他の崩壊と異なるところは、それが人類の未来に関わるということである。その崩壊は、未来の「人間の危機」の予兆である。もし近代文明が歴史的にみてまたその特質からしてキリスト教文明ということができるならば、キリスト教なしに近代文明はどうなるだろうか。哲学者レーヴィットは、キリスト教文明としての近代文明の教育が目指した理想像「キリスト教的ジェントルマン」の不可能性について論じたことがあったが、もしそれが本当に不可能であるならば、教育は、必然的にヴェーバーのいう「精神なき専門人」の生産工場と化し、人間は精神なき合理性の「鉄の檻」の中へと追い込まれて行くであろう。われわれが見たのは、そのおそるべく貫徹された合理性の悲劇ではないか。

 ブラウニングの詩の一節にこういう言葉がある。"Trust God; see all nor be afraid"「神を信ぜよ、すべてを見よ、それでも恐れてはならない」。今年の聖学院教育会議は、この言葉によって現代の悲惨の本質を見る覚悟をもっていなければならない。

(2001年9月19日)