「小泉首相が国際的な政治家になるためには」 |
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あの森前首相でさえ靖国参拝を思い止まった。なぜ小泉首相は固執するのだろうか。問題は、その固執の理由が納得させるほど十分に説明されていないことである。始めに決断あり、というのではないか。本件については韓国も中国も外交手段をもって懸念を表明している。この内外較差が首相に存在するのは、最近の外務機能障害のせいであろうか。ソウル滞在中ホテルでヘラルド・トリビューンを読んだ。第一面に大きく韓国と日本の関係が教科書問題や靖国問題で悪化しているという記事がのっていた。この新聞は世界の指導層や知的階級に広く読まれている。影響力がある新聞である。こういう国際与論の動きに配慮があるだろうか。小泉氏の個人的心情的決心が、国際的妥当性へと改善されるためには然るべきサポートが必要であると思う。このまま行けば、世界与論を納得させることができず、日本はまたもや孤立化への道を行くという運命に巻き込まれるのではないか。 国内だけでなく国際的にも立派な政治家が出て欲しいということは、戦後日本国民が、政治家集団に久しく求めてきた期待である。戦後のドイツは近隣諸国に信頼をかち得た。日本の政治家は、ワイツゼッカーのようなドイツの政治家の認識と態度に学ぶ必要があるのではないか。ところで、小泉氏の靖国参拝の決意は極めて個人的心情倫理的であるが、もしそうならば、かえってその心情が靖国参拝へと短絡される理由もなくなるはずである。 隣国の反対は、靖国参拝には深く歴史認識の問題が関わっているからである。小泉氏はこの問題を両国間に存在する諸問題の同一平面上の一つと見ているが、次元が違う、それは深層にある問題である。首相は、行為のあとでそれを説明できるという自信をもっているようだが、それは内外較差のもたらす誤信ではないか。行為の後の説明は論語の戒める「過ちを文(かざ)る」だけとなる。むしろ行為をしないという決定をもって言葉に代えたらよいと思う。首相は、このジレンマの壷の中から手を抜き、自由な手をもって近隣諸国間を深くえぐった傷に手当てすべきではないか。それが、アジアの国際関係をたしかなものとし、アジアの未来に希望を開くであろう。靖国神社の合祀された人びと(わたしの長兄もその一人だが)の死は、21世紀のアジアの平和のために、別な仕方で生かすべきではないか。あのハンセン氏病患者に対する控訴を思い止まったような態度をもって、小泉氏が新しい国際政治家として台頭することを願っている人びとは決して少なくないはずである。 (2001年6月11日) |